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【ネタバレあり】天気の子感想

2019/7/19に新海誠監督の最新作「天気の子」が公開された。

0時最速上映と、9時一斉上映を鑑賞した時点での感想を書こうと思う。

 

 結論を述べると、「君の名は。」に対する批判に真摯に向き合った映画である。

そして、観客にノースリーブパーカーの良さと、透け系娘の良さ、都市×水没世界の良さを知らしめる映画である。

 

先に、事前のインタビューで監督が話していたことを確認しておこう。

『でも、「代償もなく死者をよみがえらせる映画である」「災害をなかったことにする映画である」という批判は、ずしんとくるものがあって。』

君の名は。」を批判してきた人たちが見て、より叱られる、批判される映画を作らなければいけないんじゃないかというふうに思いました。

いずれもNHKオンラインより引用。

www3.nhk.or.jp

 

ここで監督が話しているのは、「天気の子」はご都合主義に対する批判に向き合い、感想が賛否両論となるように設計された映画だということだ。インタビューで述べられていた批判に対する回答として劇中では、陽菜を救うための代償としてこの世界の晴天、東京を水没させるという災害を設定した。

帆高が選んだのは陽菜のいない晴れの世界よりも、陽菜のいる世界だった。けれども、誰も悲しまない第3の選択肢はでてくることなく物語は終わり、彼らはその痛みを背負ったまま生き続ける。「君の名は。」のご都合主義に対する批判への回答としてこれ以上完璧なものがあるだろうか。

 

ここからは鑑賞した感想をつらつらと。

鑑賞で泣きそうになったシーンは三つある。最後は実際泣いた。号泣だった。

一つ目は最初の陽菜が晴れ女になるシーン。1回目の鑑賞では普通のシーンであったが、結末を知ってから見た2回目はなかなか来るものがあった。ここで晴れ女にならなければよかったのに。でも、晴れ女にならなかったら帆高は陽菜と会うこともなく、陽菜は東京の片隅で水商売をしながら生きていくことしかできないのだろう。

二つ目は帆高が陽菜を追って雲の上の世界に行き、帆高と陽菜の手がつながるシーン。さあ泣きなさいと言わんばかりに予告編でも流れていた「グランドエスケープ」が流れだす。泣くしかないだろう。

最後は3年後に帆高と陽菜が会う直前、雨空に陽菜が強く願うシーン。

陽菜が晴れ女の能力を失ったことを説明するカットであるが、同時に、陽菜自身が天気の巫女の生贄とならなかったことで世界の形、具体的には東京を水没させてしまったことに対する深い後悔や懺悔をしているように見える。彼らはこの先もずっとその選択をしてしまったことを後悔するのだろう。予告編では未公開だった「大丈夫」の曲がその気持ちを一層引き立たせる。悲しくて悲しくて、この文章を書きながらまた泣いてしまった。これからも、ふと雨空を見上げた時に「天気の子」を思い出して、私は泣くのだろう。

 

私は、できるならお話はハッピーエンドのほうがいいと思っている。それがご都合主義と呼ばれようとも。だから、「天気の子2」を製作して二者択一の葛藤を、第3の選択肢で爽快に打ち破るような映画を作ってほしい。

 

新海誠監督といえば、映画に性癖を盛り込むことで有名である。「秒速5センチメートル」でNTRを盛り込み、「言の葉の庭」では足フェチを盛り込んでいた。「天気の子」の陽菜の格好を見れば一目瞭然だが、ノースリーブパーカーの良さをこれでもかと盛り込んでいる。それだけではない。劇中、陽菜が帆高に自身の体の異変を伝えるシーンでは、陽菜の上半身ヌードを披露しつつも、いわゆる『スライム娘』のように体を透過させることにより謎の光に対抗している。体の異変を伝えるだけであれば上半身ヌードを披露する必要はないのでは?だとすれば考えられるのは一つ、監督が『スライム娘』のような透け系娘の良さを我々にアピールしているのではないか!!!そうとしか考えられない。

監督はまた、美しいという言葉では十分な形容ができないほど美麗な背景を映画に盛り込んでいる。「言の葉の庭」ではそれはそれは素晴らしい雨の世界の背景を我々に見せてくれたが、「天気の子」ではその一歩先、水没した都市の美しさを惜しげもなく披露している。現実に起こってしまうと美しいだけではすまされない(先に語ったように劇中でも大変なことになっている)けれど。